メンバーズコラム

第3回 2007/10

中緬国境のキリスト教徒ラフ村(3)

西本 陽一

定期行事の他に、村人の病気が長引いたときなどには、「家での祈祷会」が催されることもある。「家での祈祷会」では、ホストが豚をつぶして、料理を作り、村の人々にご馳走する。豚がなければ、水とお菓子でもてなす。「祈る」(聖書を読む、歌を歌う、祈るから成る)→「食べる」(共食)→握手→「歌を歌う」という手順で進む。「功徳を求める」aw bon ca veのである。他人の物を盗んだり、浮気をしたりすると、「罪」ven baになる。「功徳をなす」bon te veことによって、「罪をなくす」と、病気も治るのだという 。(1)ホストから司式者にお金が払われるが、額は4元ぐらいからである。そのお金は教会の費用となり、牧師などが教会センターなどに研修に行く際の費用などにあてられるので、司式者自身は儀礼でまったくお金を貰うことがないそうだ。

父母に対して不義理や不孝を行うと、やがて病気などの災厄に見舞われるという観念は、中国のキリスト教徒ラフのあいだでも共有されているようである。サラマも「父母に対して罪があると病気になる、父母の手を水で洗ってやると治る」と言った。他人の手に水をかけて儀礼的に洗ってやる行為には、相手に対する表敬の意味がある。

タイのラフの間では、親に対する過ちを贖うために、「ケプチェヴェ」hkeh hpeu che veという、さらに大掛かりな儀礼が行われることもある。親が着ている上着で水を濾し、その濁った水を飲むというものである。ここではやらないかと聞いてみたが、サラマの答えは、そんな「異教徒のやり方は、知らない」というものだった。同様の答えは、タイのキリスト教徒ラフからもしばしば聞かれるが、現実は違う場合も少なくない。

ネ(精霊)に対しては、山のネでも川のネでもト(妖術霊)でも、(神やキリストに)「祈る」だけ(で、精霊祭祀することはない)という公式の答えが聞かれた。これも同様に、実際の状況をどれだけ反映しているかわからない。

中国のラフ教会の中心地は、瀾滄と孟連のあいだの山中にあるパーリ(班利村)である。そこには、聖書学校があり、自分たちも一年に1-2回研修に行くとサラマは語った。教会のリーダーは「石有福」だったが、しばらく前に「ジャロー」Ca Lawという者に代わったそうだ。ジャローの中国名は知らないとサラマは言った。

ひととおりの話を終えて、サラマにラフ語の聖書と讃美歌集とを見せてもらった。どちらもタイやビルマのキリスト教徒ラフが使っているものと同じだったが、印刷地が中国である点が異なっていた。中国で印刷する方が安いらしい。

老邁村での短い滞在を終えて、次のラフシ村(非キリスト教徒)に向けて出発した。


  1. 儀礼としての「家での祈祷会」の構造は、非キリスト教徒ラフの「功徳をなす」bon te ve儀礼と同一である。罪、病気治癒、積徳による罪の浄化を軸とした、この「サラマ」の説明もまた、非キリスト教徒ラフの「功徳をなす」儀礼についての説明と軌を一にしている。キリスト教徒ラフはしばしば「神に力を借りるため」といった、より抽象的で公的な説明を行うこともあるので、「サラマ」のこの説明を聞いて、その直截さが印象にのこった。

第4回に続く

研究者紹介

近影

西本 陽一

金沢大学文学部 准教授

研究テーマは「北タイ山地少数民族ラフにおける宗教変容と語り」で、主な著作に『神話の社会空間―山地民ラフの『文字/本の喪失』の物語』(世界思想社)などがある。