メンバーズコラム

第1回 2007/08

中緬国境のキリスト教徒ラフ村(1)

西本 陽一


ぬかるんだ道

雲南省の首都昆明で雲南民族大学との学術協力についての協議を終えて、私は中緬国境の糯福郷にラフの村を訪ねに出かけた。8月末の雲南は、東南アジアのモンスーン気候に含まれるのか、雨季である。朝早い昆明発の飛行機に乗って、景洪(西双版納)には8時過ぎに到着したが、9時半に景洪のバスターミナルを出たバスは、予定の倍以上の時間がかかり、瀾滄に着いた時には、夜の10時半になっていた。途中の山道でトラックが立ち往生していて、ブルドーザーがトラックをぬかるみから押し出すまでバスが停まってしまったからである。山道で渋滞は初めてだ。


牛の行列

翌日、瀾滄の役人に短く挨拶をしてから、午後3時半にミニバスに乗って、糯福に向かった。糯福は瀾滄県南部にあり、ビルマとの国境も遠くない。6時半に糯福に着くと、すぐにそこの役人に迎えられ、「辺防派出所」に出向かされた。派出所ではパスポートの確認がなされ、中国での移動の日程や来訪の目的について聞かれた。それが終わると、糯福の郷長を含めた役人たちとの夕食となった。翌日、糯福から南へラフの村を目指して出発した。

最初に行った阿里(アリ)村は、糯福から17キロの距離にある村で、地元の言葉では「アーレー」と呼ばれていた。ラフナ、ラフシ(1) 、ハニの混住村で30-40世帯が暮しているという。村委会の書記はハニ族で、その他副書記たちが昼食に同席した。村の人々の生業について聞くと、「小百貨」の商売、水田、茶、松脂で生活しているとのことだった。食事が終わると、この副書記が次の老邁村に案内してくれた。


食事

老邁村は阿里の「小村」である。「小村」とは「寨子」のことで、「村」よりも小さな単位の集落を指す。一部のラフシ(非キリスト教徒)を除くと、ラフナのクリスチャンの村で、全部で70世帯、350人が暮しているという。水田は各家にあるが、焼畑はない。これは村が「7年前に山の高いところから降りてきた」ことと関係しているらしい。大雨と山すべりのための移住で、家の新築に際しては「政府が援助してくれた」。農作物としては、米を自家消費用に、玉蜀黍を豚の餌にするために栽培している。他には、水牛と牛を飼っており、玉蜀黍や砂糖黍を売るために栽培している。松脂集めも現金を得るための仕事である。若者の「一部は」町に行って働いているということだったが、あとでいろいろ話を聞いていると、その比率はけっこう高いようだった。何をしているのかと聞くと、「服務員をしている」という答えである。「服務員とは一体なにをやっているのだ」と聞いても、「服務員」の繰り返しである。村内に学校はなく、子供たちは阿里の小学校に行くが、「初中」(中学)は、糯福に寄宿して通わなければならない。「高中」(高校)以降は瀾滄に行かなければならない。あとで話を聞いた「サラマ」(31歳)の娘のひとりは糯福で勉強しているが、お金がかかって仕方ないということだった。


老邁基督教堂

案内してくれた阿里村委会の副書記のラフシの男によれば、阿里の寨子のうちクリスチャンはこの村だけで、他のラフナ、ラフシはクリスチャンでない。老邁村の人々は、1980年「改革開放」の時に、「キリスト教を始めた」。それ以前は「何もやっていず」、病気の時には「薬を飲んでいた」。この(宗教面で)「何もしていなかった」という答えは、他の場所でも聞いたが、そういうことがあるだろうか。


教会内の様子

村の外れの高台、入口の道路の反対側の高台には教会(「老邁基督教堂」)があった。暑い日だったが、歩いて登って見にいった。中を覗くと、正面の説教台やらポスターのある脇に、黒板がかけられていた。黒板にある文字はローマ字を用いたラフ語表記であるが(ただし声調記号は省略されていた)、1950年代に中国政府が作ったものではなく、バプティスト宣教師が20世紀初めに案出した表記法だった。このバプティスト文字は、タイやビルマのキリスト教徒ラフが使っている。


  1. ラフナとは「黒いラフ」、ラフシとは「黄色いラフ」という意味で、どちらもラフ族の下位集団である。中国のラフ族の多くは「ラフナ」か「ラフシ」であり、タイやビルマに見られる「ラフニ」(赤いラフ)は中国にはいない。

第2回に続く

研究者紹介

近影

西本 陽一

金沢大学文学部 准教授

研究テーマは「北タイ山地少数民族ラフにおける宗教変容と語り」で、主な著作に『神話の社会空間―山地民ラフの『文字/本の喪失』の物語』(世界思想社)などがある。